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 衝動で、あるいは流れにまかせて、自分を置いてきてしまった。あの人の何にもならないかなしみや息のできない苦しみを置いてきてしまった。連れてこられたらよかった? でも、あれを背負って走るなんて無理だった。歩くなんてもっと無理だ。細い一本道は駆け抜けないと落っこちる。 だから窓から見える景色が突然引っかかりなく流れ出したときは何も言わずただ唾を飲んだ。
 瓜割の滝から橋に向かって薄黄色の筒(竹かな)が滝の水を運んでいた。その水を受けようと手を伸ばすヒトがいなくても、細い筒から水は川へ落ち続けていた。 いまもきっと流れている。ヒノキの葉も幹も色を潜める森のなか、はじまりも終わりもない水だけがくっきりと黒い。月の細い今夜はきっと光もほとんど届かない。ただぬるぬると誰にも触れられずに岩に砕けても形を持たない滝の水はいつまでも流れてゆくんだ。 筒から水を受けて飲むと甘みを感じたので、母にそう伝えた。私が足場の石から足を踏み外さないように注意を促すと、母は私よりいっそう川面に近い石にしっかりと右足を置いた。それから母は二度三度、盃のようにした両手に滝の水を掬っては飲んだ。その間、私は母の新しいスニーカーに滝の水がこぼれて染みこまないか心配で、母の足元をみていた。染み込んでも染み込んだことを確認するぐらいしかしなかっただろうけど。とにかく危なかったのは1回目だけで、2、3回目以降に掬った水は母の足元から10センチ弱は離れていた。母は滝の水を飲むのが上手かった。母は透明に濡れた自分の口の周りをやわらかそうな薄いハンカチでしっかり拭いた。
 何かがすごく悲しくて、洗濯物を畳んだり風光の寝具を西日に当てたりしている間、ずっとそのことを考えていた。何かが悲しい。 これは書くことでしか落ち着かせられないとおもって、10分くらい前に風光との散歩に持っていくと決意して(あなたは決意せずに持ち物を増やせるだろうか)ズボンの左ポケットに突っ込んだiPhoneを左手で掴んで右手に持ち替えながら、ダイニングテーブルの自分の席に座った。回転する椅子の座面に両の足の裏をのせて、机より近づいた左膝に両手を添えたiPhoneをのせる。顔認証を突破して現れたホーム画面の前で人差し指をくるくると2週半してから、何のためにiPhoneを開いたのか思い出す。お気に入りにしてある「Blogger」のアイコンをタップして歯磨きで口に溜まった泡を洗面台にだらしなく落とすように画面のキーボードにぼたぼた触る。「顔認証を突破して」まで書いたところで風光が右下からこちらをみて鳴いた。夕方の散歩だ。iPhoneを持たずに風光と家を出て、待ったり歩いたりしていると、さっきまで書いていたブログにかじってもいない現象学と3年前に買って前半の前半の前半まで読んだきりのサルトルの『嘔吐』を感じ出していて、げっと思い留まる。わたしの脳内がわたしの編集なしに書き出されなくてよかったと思いながら、でもほんとにそうだと言えるだろうかとふざけると、遊びのつもりが不安になってきて、まあそんな訳ないから助かるんだけどとぼやぼや終わらせる。
 また同じことを繰り返してるような気がした。結局同じところに戻ってきている気がした。というより、一歩も進んでも戻ってもない気分。 「成長」も思い込みだった。それはただの経験。みえていた人。理解したくて追いかけ回した言葉や役割を失わないように食べたり飲んだりしたものたち。 心からの「だいじょうぶ」や「わかるよ」なんてただのわたしの評価だった。望まれていたのはサポートだ。 わたしじゃない。わたしのためじゃない。視界に突然現れたものも見つけ出したものもわたしのためのものじゃない。組み合わさって分離して死ぬまで失われない個だ。 わたしはなにとも一体化できない。だれもなにとも一体化されない。 だからあの人は誰かに会いに行くのかな。誰も自分と同じではないことを知っているから。誰もが誰かと同じではないと知っているから。 わたしはいつも自分の脳が自分や他者の在り方を書き換えていると感じる。
ひし形に組まれたわたしの脚のなかへ子犬が一匹入って眠った。そこへもう一匹子犬がやってきてわたしと元いた子犬に重なるようにして眠った。しばらくするとまた別の子犬がやってきて、ひし形の外枠に沿って伏せた。 わたしの脚が3割痺れはじめていたから、そっと子犬の脇に手を入れて一匹ずつ出した。
 『セックス・エデュケーション』のシーズン3を観るためにシーズン2を観返して、シーズン3を観始めた。 怖かった冒頭の叫び声は観るデバイスが変わると怖くなくなった。画面のサイズが小さくなったからかな。違う。怖さはなくなったんじゃなくて、画面のサイズに比例して軽減したんだ。ゼロヒャクで考える癖の跡をみつけられたから機嫌が良くなる。 反省は自分を追い詰めなくてもできるのだと少しずつ理解し始めた。自分の行動を思い返して判定をつけるのはやめられない。でも「だめ」だったらおしまいじゃない。残念だけど。また次が軽々と来るからこちらもからっと作戦を変えるほかない。 まだ「正しさ」を求めて骨をきゅうきゅうと鳴らしながら歩いている。下り坂でも上り坂でも前方に歩行者がいるならば自転車から降りて押し歩く。
おまじないは繰り返されることで効果を発揮するんだな。わたしの輪郭をさらに太く柔らかく包むコトバ。白く濁った青紫色の光。 このコトバを、わたしもきみに何度でも繰り返して、それがきみのおまじないになったらいいな。太く確かにきみの体を包んで、どんなときも守れたらいいな。 別々のところにいても、わたしときみがいつも、同じコトバで包まれていたらいいな。
 誰かの歌声に隠れながら書き始める。音楽を聴くと感情が簡単に揺れる。だから、そのときの気持ちだけがまるで真実みたいに感じたり、普段が嘘のように、何かを忘れたまま生きていたように思えたりする。だけど、音楽を聴いていないときも、あなたの歌を聴いていないときもわたしは存在している。音楽は行動や気持ちを簡単に作るからこそ、それに流されたくないときがあるよ。音楽はすきだよ。踊るのもすきだよ。自分でやめられるあいだはすきだ。
涼しい風が日陰をさっさと冷やして真夏のピークが過ぎた。このあいだまで素足じゃ火傷しそうに熱かったコンクリートの道で、風光が鼻を持ち上げたまま立ち止まった。 軽自動車がうるさく行き交っていたはずなのに、その音を覚えていない。覚えているのは、熱さと緊張で少し平ために開いた風光の口元と細めた目。涼しい風を感じる毛だらけの体。
 サンダルなら裸足でも気持ちいい。それって「スニーカーを裸足で履くと靴が臭くなるよ」って言われてきたから? どうかな。 大事なのは指先が外気に触れていること。雨水が裸足の指を直接濡らすこと。裸足の指で濡れたサンダルを撫でられること。乾いた公園で風光と遊んでサンダルを黄土色の砂で汚すこと。ざらついたつま先のままコンクリートを蹴って家に帰ること。 「すぐ洗える」から汚れてもいい。汚れるに決まってるから。 玄関で風光を抱えて、毛のびっしり生えた足を白いウェットシートで拭く。白くて薄い生地に薄明るく延びる黄土色。 「えらかったね」とわたしは風光に言う。 わたしは汚れたサンダルを脱ぎ、ざらついた裸足で廊下を歩く。 いい気分だけど、私も足を洗って家に入ったほうがいいのかも。サンダルごと蛇口の水で砂を落とす。それか濡らしたタオルをあらかじめ玄関に置いておけばいいのかも。それなら風光の足もそれでいっしょに拭いてしまえるし、洗って干せば何回でも使える。 裸足って気持ちいい。汚れてもいいし、汚れるに決まってるし。 カネコアヤノをApple Musicのシャッフル再生で聴いている。カウベルが揺らすもの。 恋をしていなくても歌うよ。道の端っこを歩いていても踊るよ。カメラもマイクもライトも通り過ぎて、でもそれがなんだっていうんだろう。冷たく暗い道に躍り出て、眩しいものを見つけたら走る。
 ブログをしばらく書かなかったのは溶けてゆく氷のように毎日を過ごしたかったから。滑るように止め処なく過ごしたかったから。時間は簡単に止まるけど、それを書き留めないでいた。 イチョウの尖った枝ぶりがすきで、それに貫かれることを妄想すると気持ちよさを感じるようになった。それから数日後、その感覚が実物のわら半紙を実物のシャープペンシルで貫いたときに得る快感とよく似ていることに気づいた。貫かれる妄想で得ていた快感は貫く側の快感だったのだ。自分の頭の都合の良さが嫌になった。 それなのに裸のイチョウの木をみつけると快楽物質はすぐに沸いて脳内を駆け巡る。 こんなことばかりなのかもしれないと自分を気持ち悪くおもう。 アルバイトに通う道にも風光との散歩道にもイチョウは立っていた。 さっきの段落を書いているあいだ、自分の感覚はやっぱり当てにならないとおもい続けていたけど、それで構わないことをおもいだした。自分を善良な存在だなんておもっちゃだめだって、『さんかく窓の外側は夜』で半澤さんが言ってた。わたしは「その通りだ」とおもってするする読んでいた。 疑い深いとおもっていたのにいつのまにか簡単に信じる人間になっていた。いけないことだ。さんかく窓もまた読み返そう。 髪の毛をたくさん切ってもらって短くなった。気に入ってる。強い風のなかを大股で歩いて、目の中に入る塵をいくつか感じた。そのときのわたしが、わたし全体がそうできたことは、偶然のことだった。
 うれしいことがあって踊る。 わたしの葬式が開かれるとしたら流れる音楽は「ダンス」がいい。わたしのすきな歌だし、そこにいるひとのための歌だとおもうから。 もし、わたしを知っていそうな物が悲しそうな顔をしてたら「野生のポルカ」をおもいだしてほしいよ。それに聴こえるように「細道駆ける最高の野生種に 細道駆ける最高の野生種に 細道駆ける最高の野生種に 細道駆ける最高の野生種に 細道駆ける最高の野生種に 細道駆ける最高の野生種に」って歌ってあげてほしい。これは必要な呪文だから。 葬式は「さようなら」って言っても「さようなら」って返ってこないから帰れないひとのために終わりがある。 いい匂いの「ダンス」。もう一度、もう一度! きのうの夜、だいすきな友だちが歌をうたってくれた。きらきら、空気にひっかかったりすべったりしながら、金色の粒々は流れてゆく。たまに緑色やピンク色や銀色の光ののった金色の粒が、右のもっとみえないところへと流れていった。 うたってくれた歌は聴いたことのあるメロディーだったはずなのに、もう忘れてしまった。だけど、別にいい。 不自然なのはわかってるけど、いまのところ、これでいいとおもってる。
 おとうさんの誕生日は、葉っぱと海がぴかぴかの、空がふわふわの晴れだった。 できたことがいくつもあった。おめでとうということ。だいすきだと伝えること。ハグをしてもいいか訊くこと。ぎこちなくなった自分を部屋に入れてもとに戻せたこと。プレゼントを渡せたこと。ケーキを買えたこと。いっしょにスーパーに行ってお弁当を選び、買ってもらったこと。 海を眺められる東屋で、お弁当を食べた。 母と父の間に座って、わたしは海や人や波の泡や岩やごみやいなり寿司や空やカモメをみていた。警戒していたトンビは一匹もみあたらなくて、逆に変な感じだった。 突然和太鼓と横笛のパフォーマンス(練習かな)がはじまったので、とりあえず踊った。おかあさんが「帰ろうか」というまで、座ったりうろうろしたり撫でてもらったりしながら、踊り続けた。 上へ下へ弾むように繰り返される蚊柱。
 夕陽で黄色くなった壁におかあさんとぼくの影がうつっていた。 砂と水で作ってもできそうな影だった。おかあさんが勢いよく吸って空にしたジュースの紙パックも、玄関にかけられた帽子も。 壁には触れられなかった。 いつか触れられなくなるのだとわかった。 いま触れられるのかさえわからなくなった。 それでも、波に浮かぶオレンジの光を、桃色から紫色に変わっていく空を、階段の踊り場でゆらゆら歌うわたしを、みていたのはおかあさんだ。 テープの戻る音がして、自転車の車輪がカラカラ回る。
 夢のなかで小山田壮平の新しいアルバムの情報が発表されてた。タイトルはたぶん『おばけでいっぱい』か『みんなおばけ』。アルバムとか、シングルとか、特典付きのとか、いろいろ展開があったけど、表紙はどれも、ジャングルジムの升目をオレンジ色や赤色や黄色で強く塗りつぶしたような、立体的で輪郭の揺らいだ絵だった。 金曜日のお昼過ぎ、おかあさんと駄菓子屋さんに行った。灰色のカーテンがずたずたに裂けたちいさな建物のまえに車を停めて、そこから少し歩いた。駄菓子屋さんの引き戸はすべて木で縁取られた透明なガラスで、きれいに並べられたお菓子のパッケージの色が調和しないまま道路にはみでていた。 おかあさんの後に続いてお店に入り、「こんにちは」と挨拶をして、裸眼の目をお菓子のうえへ滑らせる。ガラス戸越しでなくてもお菓子はツヤツヤと光ったままで、種類も数も多かった。棚の向こうの襖から人が出てきて何か挨拶をしてくれた。 わたしはマスカットのぷっちょ、おかあさんはパイの実の苺味を選んでそれぞれお金を払った。お店の人はパイの実をみて「これはちょっと高いけどいいですか」、おかあさんは「いいですよ」、「200円です」、と言っていたけど、コンビニで買うよりいくらか安いとおもったから、お店を出てからその夜眠りにつくまでのあいだ、おかあさんにそのことを3回は言ってしまった。わたしのぷっちょも「100円」だったから、コンビニより安かった。 お金を払って「ありがとうございます」とぷっちょを受け取ると、お店の人は「おおきに」と言ってくれた。 車に戻るまでの短いお散歩のあいだずっと、河沿いの匂いがふーうーゆーとわたしと、きっとおかあさんにも流れてきた。それといっしょに、河にみつけたたくさんの水鳥の声、「アーアー」。おだやかだね、天敵がいないんだろうね。相槌をうってくれていたおかあさんは、わたしと違う人間で歩いていた。 車に乗って河のうえの橋を渡り、わたしが駄菓子屋さんを驚きながら褒めてるとき、「おおきにって言ってた」ことを、もちろんおかあさんにも伝えた。
怖くない話を怖がるわたしの無茶なリクエストをきいて、タバスコの話をしてくれたひとの優しさがわすれられない。 いつもよりずっと早口で、いままでにないくらい慌てた様子で聴こえてきたタバスコの話は、だけどきちんと形になっていた。わたしの怖い気持ちを受け止めて、やわらげる責任なんてこのひとには無いはずなのに。怖がるわたしがおかしいはずなのに。おどろいて、おかしくて、わかるようでわからなくて、笑った。わたしの笑いはしばらく止まらなくて、そのあいだも、友だちはタバスコの話を続けた。 どうしてあんなに優しいのかな。知ってることを、与えてくれる。優しくないときもあるのかな。反射運動だったのかな。 考えるふりをして、もらった炎に何度も手をあてにいく。柔らかな赤い熱が、暗い部屋のなかで揺れる。
しとしと雨をまってる。怖くてたまらない身体に重なる葉っぱをまってる。冷たくて重たい安らぎを求めてる。放り出せないから毛玉だらけの赤い靴下を履いて眠る。 紫色の空がそこにもあったこと。目と血の巡り。歌になってわたしの耳に飛び込む。さよなら。さよなら。別々だから出会えたね。
後ろに回って、ぼくがどれだけ嘘をついたか、みてごらんよ。それとも、わたしとおんなじで、そんなこと必要ないかな。 『スピッツ コンサート 2020 “猫ちぐらの夕べ”』をオンライン上映で視聴した。 このまま通り過ぎて、はだしのままじゃれあうことが、できないのだとしても構わないよ。スコップで掘り当てるつもりもない。きみのことがすきだよ。 風はまあるく吹く。
うれしい。 はじめて手作りしたバナナケーキとクリームを、セピア色のランプのしたで、母と父と次兄といっしょに食べた。 次兄が「すばらしい」と褒めてくれた。母も父も、おいしいって、言ってくれた。 テーブルのまんなかには、空色斑点の貘、ステンドグラスのツリー、頭のうえで炎をゆらめかせながら「You melt me...」のパネルをもつ雪だるまの姿をしたキャンドル風ライト、おかあさんの大事なファンタジアのミッキー、ガラス窓にオレンジ色の灯りが透けているえんとつ屋根のお家が、おかあさんの手で丁寧に並べられていた。 川のように流れていくクリスマスソング。柑子色に輝くリース。舌のうえにのびるクリームのやわらかい冷たさ。固いケーキを噛んでひろがるバナナの香り。 掬う網はちがっても、あのときあったものは、わたしと母と父と次兄でそんなにちがってないはず。それでもやっぱり、同じではないとわかってるけど、それはただ、わたしの手があなたの手じゃないという、それだけのことだ。 わあ、「それだけのこと」だって! 夕方の空は鼠色も白色も桃色も青色も光って、たまに降る雨とあられが眼鏡レンズを濡らした。友だちに送るための色と形を探して、切り取る。 飛行機は桃色に輝いて飛んでいた。月は白色を超えて濃くまろやかに光る。こちらからは、そうみえていたよ。
  光る青色をみた。みたよね。信じてあげたいな。何回もみあげて、ことばを探したよね。内側と外側が引っ付くような。 明るい灰色の雲が水色に混じり合って空になってた。わたしはこれになりたいって言ってた。そういうことにしたよ。 ちくちく。 積もらない雪とニュースでながれてきた消えない雪がぐちゃぐちゃになって身体の内からは音も聞こえないのに声が出る。 あいさつ。癒せるように繋げている足跡。