投稿

 居候27日目。頭が痛い。風光の足の裏はあたたかい。昼寝のまえ、住人の名前を呼んでからふざけて「どこにいるの?」と叫んだら、真剣でやさしい「ここだよ」がかえってきた。今度はぼくの名前が呼ばれて、ぼくは住人にかけよる。机の上に座った住人がぼくを抱きとめて、「だいすきだよ」という。ぼくは、住人の名前を呼ぶ。涙はでない。十年前、おでこを畳にこすりつけてひとりで泣いていた、あの部屋で。もう泣かなくても、抱きしめてもらえるようになった。
 居候26日目。友人がひさしぶりに夢に出てきて、その誇らしさに支えられて階段を降りて、朝食を食べ、洗濯物を干す。喫茶店ごっこをして、住民のオーダーを受けて「たいへんだー」と叫びながら部屋を無意味に小走りするわたしに住民が笑う。いそいそと自室に戻って二度寝をする。夢のなかにまた別の友だちが出てきた。 Mastodonでフォローしているユーザーに谷川俊太郎の「なんでもおまんこ」という詩をおそわる。たまんねえ。詩が、川柳が、おれを、法律から、面接から、コミュニケーションから引き剥がす。
 居候25日目。朝の散歩で風光と雨に降られる。 夕飯のサンマを庭で焼いた。西の方にまだ青さが残るくらいの夜の時間、名前も姿もしらない虫たちのたてる音をきく。ぼくは自分のしたいことだけをできるように自分を動かすのが得意なのかもしれない。部屋で夕飯の支度をするより、外でソーダを飲みながら魚を焼くほうがいいに決まってる。庭に面したリビングの窓越しに風光の黒い目をみる。ぼくは自分の声が住宅街に響いてることも忘れて、住人を庭へと誘う。もう死んでしまった犬の骨を埋めたあたりに、ハブランサスが4本(うち3本はまだつぼみ)も生えていたのだ。住人が花をみて「ももに会いにきたんだよ」と言う。爽楽は住人のことがすきだったから、そんなわけないと思ったけど、そう言ってくれたことが意外だけどそことなくうれしくて、「そうかあ」と言ってみる。明日、あの花を一輪挿しに挿して家の中に入れる。
 居候24日目。二日間日記を飛ばしてやった。22日目の夜は過食してしまって抑うつ状態だった。23日は居候先の住人と、焼却予熱を利用した温水プールと同じ施設の中にあるお風呂に浸かりにいった。温水プールには「流れるプール」があって、ぼくと住人は、温かいお水に流されて、ついたり離れたりしていた。浮いてるだけでするする前に進む感覚は、夢のなかで空を飛んでるときと体感がよく似てる。両腕で大きく水をかくと、さらにぐんと進む。ぼくと住人以外にプールには3、4人ぐらいしかいなかった。それでもぼくは人がいる、と思って少し緊張したけど、住人にとってはそれぐらいの人数がちょうどいいみたい。不思議だけど、ぼくも誰もない博物館の展示室を怖いと感じるから、それと似たような感覚なのかな。他者の感覚を「理解」しようとする自分にひやっとするけど、もう自分を罵るのはやめた。いや、やめられてはないけど、できるだけしたくない。 今朝、風光と6時半ごろ散歩に出ると、涼しくておどろく。小学生の夏休みを思い出した。「朝の涼しい時間に勉強しましょう」と書かれた紙の通りにしてみようと机に宿題を広げてみるけど、汗ばんだ右腕に紙がひっつく。扇風機の風にはためくページがバタバタして気が散る。つまらないから鉛筆の先に力を込めて、ワークの余白に濃い線を、引く。鉛筆の芯はやがてページの段を滑り落ちて勉強机を走る。角度の浅くなった鉛筆は手から滑って、床に転がる。ぼくはそれを拾って、またワークの余白に太い線を刻む。今度は机まではみ出ても滑らないよう、前より垂直に力を込める。
 居候21日目。 夜ご飯をたらふく食べて、1時間ほどしてから、住人のひとりと「虫の音にまみれに」行った。風光もいっしょに行く予定だったんだけど、ソファの下の影に頭をおいて眠っていたので、ふたりで散歩に出かけた。つないだ手があたたかい。ひんひん、つんつん、うぅうぅと聴こえる虫の声のそばを歩いていると、住人がふいに「鈴虫いたね」という。ほんとは止まって耳を澄ませたいんだけど、住人はぼくの手を握って先へ先へと歩むから、ぼくも、とっとっとっと着いていく。奥のほう、小さいけれどたしかに、ほかの音より長く響く鈴虫の声が聴こえた。 ぼくはこれがしたかった。夕暮れなんかじゃない、もっと暗くて恐ろしい夜中にふたりで外に出て、車に乗らず、歩くこと。手をつないで。このひとと、ぼくはそれがしたかった。 帰りたくないと弱くしぶるわたしに、住人は歩みを止めず家のベランダに誘う。2階のベランダにあがると、虫の音と星と雲がゆらめいていた。ぼくは床に寝転がって、前をみる。カーテンごしのそよ風みたいに静かな風がぼくの腹や足を撫ぜていく。目的のない動き。ぼくはうれしい、うれしいと何度も呟く。住人が「おいで」とぼくを呼んで、ぼくたちは黄色いアイスを食べる。「きれいな色だね」という住人が、前、ふたりで食べた黄色いスイカもきれいだといっていたことを思い出す。
 居候日記20日目。そろそろ自分のSNSの利用時間を制限したほうが良さそうだ。自分はmastodon(kolectiva.social)とThreadsにアカウントがあって、特にmastodonをメインで使っている。私にとってSNSは、校正されていない他者の言葉を読めるツール、また誰にも遮られることなく自分の書きたいことを書き続けられるツールであり、それを使用している時間はNetflixのオリジナル番組で言われているほど無駄ではなかった。でも今は違う。mastodonをみていると不安になることが増えた。それでも、タイムラインの未読のトゥートをひとつひとつ読まないといけないような気がしてしまう。不安なままでいると、学校のことを思い出してさらに不安になる。これはよくない。 朝、住人に頼まれて固くて長いパンを切る。リズムよく香る小麦の匂いと、左手の指やひらから感じる、ざらざらの生地。風光が口をあけてパンを待っている。住人が「いっしょにコーヒー豆を買いに行って、お昼を外で食べない? それだけで帰ってくるから」というので、いいよと返事をする。住人は「やった」と喜んだ。行き先と目的を具体的に伝えてくれたこと、断られることも想定された誘い方だったことがうれしくて、ぼくもよろこんで、お出かけの前に皿洗いや洗濯物干しや家中に掃除機をかけた。 お昼はココスで、モッツァレラチーズのトマトパスタを食べた。地面を埋めつくす稲穂のグラデーションや、ひたひたの河に突き刺さった枝、山の裾野で草をついばむ鹿を車の窓越しにみた。ほかにもみたけど、指が痺れてきたからもうやめる。 もうほとんど暮れきった黄桃色の外に、住人の車に乗せられて、散歩に出かける。切り絵みたいな松の木のシルエットに、肌がチクチクする。
 居候19日目。 朝7時過ぎに起きて、風光と散歩するために慌てて自室から出る。6時半を過ぎるともう日がだいぶ高くなって、日向は歩けないほどになってしまうのだ。ぼくより地面に近いところを歩く生きものはもっと暑いに違いない。 共有スペースに行くとチャっと風光の爪がフローリングにあたる音がして、覚えてないけどぼくはたぶん小さな声で、おはよ、だとか、ぷぷちゃ、だとか、言って風光の顔やおでこをなでる。手のひらや指の腹から、風光の頭蓋骨を感じる。風光は床にふせて眠たそうにしてるけど、そうこうしてるうちに日向はどんどん拡がる。ぼくはエアコンの電源を入れて、散歩の支度をする。 外に出ると、涼しい匂いの風が鼻にはいっておどろいた。だけどそんなわけない、と思いながら立ち止まらずに庭を抜ける。2、3年前なら動かずに立ち尽くしてしまうような喜びを、ぼくは「うそだ」と振り払ったのだ。風光がいっしょにいるからかもしれない。ぼくの背の高さや皮膚で感じられる喜びのせいで、風光に苦しい思いをさせてはいけないから。 でもそれだけじゃない。どうしてかはわからないけど、ぼくはなにかの「とりこになる」のを前より恐れてる。それはうそだと、ブレーキをかける力が前より強い。薬のせい? それとも一人暮らしのせい? 原因を探る癖も前よりずいぶんやわらいだ。それをもったいないという誰かの声を遠くにやって、ぼくは庭を走らずに通り過ぎる。 10時ごろ自室に戻って、Duolingoをして眠たくなったのでもう一度眠った。共有スペースで話す住人たちの声が聞こえる。誰かがわたしの部屋の前を通ったり違う部屋のドアを開けたりする音。枕元をごそごそしてiPhoneの画面をタップすると、15時過ぎと表示された。 住人のひとりが夕方、共有スペースで昼寝をするというのに、ぼくに話しかけていつまでも寝る気配がない。ぼくが「ぼくもう2階に行くけどさみしくない?」とその人に訊いたら、「さみしい」と答えたので、ほっとして部屋から布団と本とiPhoneとイヤフォンを持って降りてくる。 ぼくは他者に寄り添うための行動(例えば、いっしょにお昼寝をしたり、食事をしたり、興味のないお出かけについていったりすること)をこのんではしないけど、寄り添いたいという気持ちはある。だけど、相手からそれを望まれないと、ほんとにそれで寄り添うことになるのかわからないとぼくは考