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言葉にされてない相手の気持ちや、言葉にされてはいるけどほんとうはその言葉の通りではないかもしれない相手の気持ちについて考えること。 わたしはそれが不得意だし、不得意なままでよいと自覚したときから、ますます言葉になっていない他者の気持ちについて想像することをやめてしまった。わたしがどんなに想像しても、その想像がぴったりあってるかなんてわたしには知り得ないから。 私はいつからか、すべての人の気持ちの所在はその当人以外誰も入ることのできない「固有の感覚世界」にあると信じることにした。それをなによりも大切におもうことで、相手より相手の言葉を信じる自分をやめられるかもしれない。私と相手がどんなに似ているように感じても、私と相手は別々なのだとうれしく思い出せるようになれるかもしれない。 だけど、友達は違った。言葉にされていない相手の気持ちを考えて、メッセージをなかなか送れない友達の様子を、電話越しに感じた。もしかしてこれが優しいってことなのかなと思った。ずっと相手のことを考えている。「わからないに決まってるのに」と私は思う。だけど友達は自分がどうしたいかとかより、私に何度も「相手はこう思ってるのかもしれない」と話すのだ。 紅茶の蒸らし時間は表記通りにする。
だいすきな人に、電話をして、「だいすき!」と伝えた。湿気がすごい夜で、小さい雨が隙間なく降り注いでた。そのなかで歩みを止めずに、何度も「だいすき!」と言った。「ありがとう」も。 怖くて震えながら送ったメッセージを、大事に読んで、考えてくれたことがうれしくてたまらなくて、ほんとは走って伝えにいきたかった。でも、電話できた。濡れずにはいられない、不快な霧雨のなかでも。 あなたがそこにいるなら、ここにいてくれなくてもいい。あなたがいてくれて、うれしいんだ! スピッツの『ひみつスタジオ』がリリースされた。すごくかっこよくて、うれしくてくるくる回っていた。まだ朝の9時過ぎなのに昼間みたいに太い日差しにあてられながら。感想をどこかで書きたい。
NL/ROKKOのイベントに2日連続で行ってきた。初めて乗った六甲ケーブルから見下ろす六甲山の木々の葉っぱはふわふわと柔らかそうだった。それは過剰な山地利用によってまるで砂漠のようになってしまった六甲山に広葉樹を植えた人たちによってつくられた景色だった。細かな葉っぱの群れが途切れると、勢いのある水が木々の生えない岩肌の上を勢いよく流れていくのがみえた。顔にあたる霧雨よりきっともっと冷たいその水を、風光にも飲ませてあげたい。 おもしろそうだからいってみようと訪れた場所には必ず他者がいるということ。人との関わりのなかから経験だけをかいつまんで得るなんてできないということに、私は去年の梅雨、気がついた。 そしてきのうもきょうも私は他者の網の中に入っていった。 アフリカの音楽の振動に震えて、渡されたシダ植物の葉の裏にのこる胞子のあとを凝視して葉の匂いを鼻から吸い込んだあと、音楽に泣きながら笑ってシダを振り、すでに踊っていた他者の目線に頷いて、段差のないステージの真ん中で不安気に踊った。 どんなにめちゃくちゃに踊ってみせても、手拍子は小さく続いた。ライブ会場になった室内の人々のつながりは、血縁でも戸籍でも契約でもなく、ただ手拍子によるもので、その糸はやわらかくていつきれても、いつはじめてもかまわなかった。
 板宿の八百屋でひとかご80円のパプリカだけを買って、須磨の海まで歩いた。パプリカのなかはほとんど空洞だからリュックに7つ入っても重たさは変わらない。ただいつも通り1.5リットル入る水筒のせいで重たかった。 地下鉄に乗って板宿に向かい、さらに板宿から須磨の海に向かう35分ほどの道のあいだ、七尾旅人の『Long Voyage』を聴いていた。それでもアルバムを通して聴くことはできなかった。 歌を聴いているあいだ、過呼吸のあと、大きく深呼吸をしたときみたいな胸の痛みと清々しさを感じた。学校で、暗くて静かなところを探して泣いていたときに、誰かに見つけてもらって、手を引いてもらいながら歩いているとき(あるいは、手は引かれずに、ただ数歩先を歩いてもらっているとき)にみた、渡り廊下の明るい灰色のコンクリートと、そこにのる光、どこかに逃げたいのにどこにも行けなくて泣いているときに、誰かがわたしをみつけて、そのひとのリズムで歩んだ感覚を、思い出した。 須磨海浜水族園に近くなると歩いている人が途端に増えた。水族園は建て替えのためにもうすぐ休館に入る。水族園の入り口近くに建てられた「ありがとうスマスイ」のパネルの前に子どもと大人が10名ほど混ざり合って立って、それを写真に写す人をみた。 去年の秋、私は友人と須磨海浜水族園に行った。水槽はどれも小さくて、他に比べたら確かに大きいと言えるかもしれない水槽にもいっぱいに魚が泳いでいた。一番恐ろしかったのはイワシの群れだ。厚くて歪んだガラス越しに、曇った銀色の個たちが止まらずに回っていた。水槽は群れの形の二回り大きいほどで、とても狭そうに見えた。友人との会話を思い出す。スマスイに私は何の未練もない。 入場料が高くなって、市民が文化施設を利用しづらくなることには反対だ。でも私は須磨海浜水族園がすきじゃない。生きものを生まれた環境から切り離して閉じ込めて調べ上げないと保護できないなんて信じられないし、そんな研究終わってしまえと思う。 海についたときも、まだ七尾旅人の歌を聴いていた。しばらく舗装された浜沿いの道を歩いて、海が透き通っているかどうか確かめなきゃいけないことを思い出した。海に来たらそうしなきゃいけない。入れるかどうか、入って気持ち良いかどうか、確認しないと。私と友人のために。 海水に両手を浸すとおもっていたより冷たかった。指を舐めるとしょっ
 あなたとわたしの全てを台無しにしてしまうようなわたしの不安は、決してわたしだけに巣食うものでは無いのだと、それがあなた自身や、この社会に生きる名前の知らない隣人にもずっと前から降り続ける雨なのだと、あなたは言う。傘からはみ出た肩を雨で濡らしながら、あなたはわたしに傘を渡す。開いた透明傘に、ぼた、ぼた、と、わたしやあなたの言葉を能無しにしようとする言葉が、振る舞いが、暴力が落ちて、さらりと、一寸先に落ちた。水溜りをみつけて、あなたはわたしに「気をつけて」と言う。わたしはつま先を水溜りの淵のぎりぎりまで寄せて、わたしのさした傘地から滑った雨粒が、水溜まりに飛び込んでゆくのをみつめる。疲れたし、もうずいぶん濡れているのに、傘をさして、水溜りを避けて歩くのが嫌になったから。あなたがわたしのいる水溜りを何十個も何百個も超えたところで、歩みを止め、わたしをみた。わたしの名前を呼ぶ。遠くにいるはずなのに、あなたの言葉はまるですぐそばで聞いてるみたいに、はっきりと、くっきりとわたしの耳と目に届く。雨が止まない。歪んだ雨粒が、あなたのさした傘の露先を伝って、あなたの手を濡らした。わたしは水溜りを飛び越えようとして、かかとでそれを踏んづけてしまう。腐った雨粒が足首を濡らした。それでも何個も何個も飛び越える。あなたが誰かに渡すために持っているたくさんの傘を、わたしも一緒に持って歩いてゆくために、飛び越える。あなたはそこにいる。わたしもここにいる。ずぶ濡れの体を抱えて歩いてゆく。
 衝動で、あるいは流れにまかせて、自分を置いてきてしまった。あの人の何にもならないかなしみや息のできない苦しみを置いてきてしまった。連れてこられたらよかった? でも、あれを背負って走るなんて無理だった。歩くなんてもっと無理だ。細い一本道は駆け抜けないと落っこちる。 だから窓から見える景色が突然引っかかりなく流れ出したときは何も言わずただ唾を飲んだ。
 瓜割の滝から橋に向かって薄黄色の筒(竹かな)が滝の水を運んでいた。その水を受けようと手を伸ばすヒトがいなくても、細い筒から水は川へ落ち続けていた。 いまもきっと流れている。ヒノキの葉も幹も色を潜める森のなか、はじまりも終わりもない水だけがくっきりと黒い。月の細い今夜はきっと光もほとんど届かない。ただぬるぬると誰にも触れられずに岩に砕けても形を持たない滝の水はいつまでも流れてゆくんだ。 筒から水を受けて飲むと甘みを感じたので、母にそう伝えた。私が足場の石から足を踏み外さないように注意を促すと、母は私よりいっそう川面に近い石にしっかりと右足を置いた。それから母は二度三度、盃のようにした両手に滝の水を掬っては飲んだ。その間、私は母の新しいスニーカーに滝の水がこぼれて染みこまないか心配で、母の足元をみていた。染み込んでも染み込んだことを確認するぐらいしかしなかっただろうけど。とにかく危なかったのは1回目だけで、2、3回目以降に掬った水は母の足元から10センチ弱は離れていた。母は滝の水を飲むのが上手かった。母は透明に濡れた自分の口の周りをやわらかそうな薄いハンカチでしっかり拭いた。