NL/ROKKOのイベントに2日連続で行ってきた。初めて乗った六甲ケーブルから見下ろす六甲山の木々の葉っぱはふわふわと柔らかそうだった。それは過剰な山地利用によってまるで砂漠のようになってしまった六甲山に広葉樹を植えた人たちによってつくられた景色だった。細かな葉っぱの群れが途切れると、勢いのある水が木々の生えない岩肌の上を勢いよく流れていくのがみえた。顔にあたる霧雨よりきっともっと冷たいその水を、風光にも飲ませてあげたい。

おもしろそうだからいってみようと訪れた場所には必ず他者がいるということ。人との関わりのなかから経験だけをかいつまんで得るなんてできないということに、私は去年の梅雨、気がついた。

そしてきのうもきょうも私は他者の網の中に入っていった。
アフリカの音楽の振動に震えて、渡されたシダ植物の葉の裏にのこる胞子のあとを凝視して葉の匂いを鼻から吸い込んだあと、音楽に泣きながら笑ってシダを振り、すでに踊っていた他者の目線に頷いて、段差のないステージの真ん中で不安気に踊った。
どんなにめちゃくちゃに踊ってみせても、手拍子は小さく続いた。ライブ会場になった室内の人々のつながりは、血縁でも戸籍でも契約でもなく、ただ手拍子によるもので、その糸はやわらかくていつきれても、いつはじめてもかまわなかった。