板宿の八百屋でひとかご80円のパプリカだけを買って、須磨の海まで歩いた。パプリカのなかはほとんど空洞だからリュックに7つ入っても重たさは変わらない。ただいつも通り1.5リットル入る水筒のせいで重たかった。
地下鉄に乗って板宿に向かい、さらに板宿から須磨の海に向かう35分ほどの道のあいだ、七尾旅人の『Long Voyage』を聴いていた。それでもアルバムを通して聴くことはできなかった。
歌を聴いているあいだ、過呼吸のあと、大きく深呼吸をしたときみたいな胸の痛みと清々しさを感じた。学校で、暗くて静かなところを探して泣いていたときに、誰かに見つけてもらって、手を引いてもらいながら歩いているとき(あるいは、手は引かれずに、ただ数歩先を歩いてもらっているとき)にみた、渡り廊下の明るい灰色のコンクリートと、そこにのる光、どこかに逃げたいのにどこにも行けなくて泣いているときに、誰かがわたしをみつけて、そのひとのリズムで歩んだ感覚を、思い出した。
須磨海浜水族園に近くなると歩いている人が途端に増えた。水族園は建て替えのためにもうすぐ休館に入る。水族園の入り口近くに建てられた「ありがとうスマスイ」のパネルの前に子どもと大人が10名ほど混ざり合って立って、それを写真に写す人をみた。
去年の秋、私は友人と須磨海浜水族園に行った。水槽はどれも小さくて、他に比べたら確かに大きいと言えるかもしれない水槽にもいっぱいに魚が泳いでいた。一番恐ろしかったのはイワシの群れだ。厚くて歪んだガラス越しに、曇った銀色の個たちが止まらずに回っていた。水槽は群れの形の二回り大きいほどで、とても狭そうに見えた。友人との会話を思い出す。スマスイに私は何の未練もない。
入場料が高くなって、市民が文化施設を利用しづらくなることには反対だ。でも私は須磨海浜水族園がすきじゃない。生きものを生まれた環境から切り離して閉じ込めて調べ上げないと保護できないなんて信じられないし、そんな研究終わってしまえと思う。
海についたときも、まだ七尾旅人の歌を聴いていた。しばらく舗装された浜沿いの道を歩いて、海が透き通っているかどうか確かめなきゃいけないことを思い出した。海に来たらそうしなきゃいけない。入れるかどうか、入って気持ち良いかどうか、確認しないと。私と友人のために。
海水に両手を浸すとおもっていたより冷たかった。指を舐めるとしょっぱい。冷たくて透き通ってて穏やかでしょっぱい。手を出して平たい波を待ちながら、ALTSLUMでたまに話す人に、須磨の海の話をしたいとおもった。いっしょに遊べたらいいけど、でもいっしょに遊べなくてもきっと楽しいとおもう、とか、話す言葉を考えていたら、勢いのある小波がきて、あっというまに右足を包んでいたスニーカーのメッシュの色を濃くした。「濡れた」といって立ち上がってみたけど、靴下までは染みてなかった。砂を踏んだり、貝殻を踏んだりしながら、友人を誘うことばかり考えていた。