瓜割の滝から橋に向かって薄黄色の筒(竹かな)が滝の水を運んでいた。その水を受けようと手を伸ばすヒトがいなくても、細い筒から水は川へ落ち続けていた。 いまもきっと流れている。ヒノキの葉も幹も色を潜める森のなか、はじまりも終わりもない水だけがくっきりと黒い。月の細い今夜はきっと光もほとんど届かない。ただぬるぬると誰にも触れられずに岩に砕けても形を持たない滝の水はいつまでも流れてゆくんだ。 筒から水を受けて飲むと甘みを感じたので、母にそう伝えた。私が足場の石から足を踏み外さないように注意を促すと、母は私よりいっそう川面に近い石にしっかりと右足を置いた。それから母は二度三度、盃のようにした両手に滝の水を掬っては飲んだ。その間、私は母の新しいスニーカーに滝の水がこぼれて染みこまないか心配で、母の足元をみていた。染み込んでも染み込んだことを確認するぐらいしかしなかっただろうけど。とにかく危なかったのは1回目だけで、2、3回目以降に掬った水は母の足元から10センチ弱は離れていた。母は滝の水を飲むのが上手かった。母は透明に濡れた自分の口の周りをやわらかそうな薄いハンカチでしっかり拭いた。
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冷たい光 ー医学モデルから社会モデルへー
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概要 この記事の読者で「発達障害」という言葉を今初めて見聞きした人は少ないと思う。しかしその一方で、発達障害に限らず何らかの障害を持つ人と実際に対面したときに、断片的な知識が頭を巡って「対応できない」と思い込み、他者を遠ざけてしまった経験はないだろうか(私はあった)。 この記事では、そうした勿体無い状況を減らすコツを2つ紹介する。 目次 1.「発達障害の定義」 2.定義由来の偏見が及ぼす悪影響 3.定義由来の偏見を捨てるコツ まとめ:社会を生きやすくカスタムしよう 1.「発達障害の定義」 まず初めに、知っている人も多いと思うが今一度「発達障害の定義」について確認してゆこう。 ただし、今から確認する定義が「医学モデル(個人モデルともいう。以下、医学モデル)」の視点で障害を捉えたものであることを忘れないでほしい。医学モデルとは、障害(生活に生じる困難や不利益)の原因は個人の心身機能にあるとする考え方だ。 障害に捉え方があるという事実に不慣れな人もいるかもしれないが、これから確認する「発達障害の定義」が医学モデルによる定義であり、たったひとつの「正解」ではないことを頭に置いて読んでもらえればだいじょうぶだ。医学モデル以外の障害の捉え方については後々紹介するから、今はひとまず医学モデルで捉える「発達障害の定義」を一緒に確認してゆこう。 医学モデルで捉える「発達障害の定義」 厚生労働省は「発達障害|こころの病気を知ろう」において、「発達障害」とは「生まれつきの特性」であり、「発達障害には、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症(ADHD)、学習症(学習障害)、チック症、吃音などが含まれます。これらは、生まれつき脳の働き方に違いがあるという点が共通しています。同じ障害名でも特性の現れ方が違ったり、いくつかの発達障害を併せ持ったりすることもあります。」と紹介している。 続いて個別の「発達障害」についても言及している。例えば注意欠如・多動症(ADHD)は「発達年齢に比べて、落ち着きがない、待てない(多動性-衝動性)、注意が持続しにくい、作業にミスが多い(不注意)といった特性があります。多動性-衝動性と不注意の両方が認められる場合も、いずれか一方が認められる場合もあります。」と記載されている。また、ここには書かれていないが、これらの特性と「社会
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何かがすごく悲しくて、洗濯物を畳んだり風光の寝具を西日に当てたりしている間、ずっとそのことを考えていた。何かが悲しい。 これは書くことでしか落ち着かせられないとおもって、10分くらい前に風光との散歩に持っていくと決意して(あなたは決意せずに持ち物を増やせるだろうか)ズボンの左ポケットに突っ込んだiPhoneを左手で掴んで右手に持ち替えながら、ダイニングテーブルの自分の席に座った。回転する椅子の座面に両の足の裏をのせて、机より近づいた左膝に両手を添えたiPhoneをのせる。顔認証を突破して現れたホーム画面の前で人差し指をくるくると2週半してから、何のためにiPhoneを開いたのか思い出す。お気に入りにしてある「Blogger」のアイコンをタップして歯磨きで口に溜まった泡を洗面台にだらしなく落とすように画面のキーボードにぼたぼた触る。「顔認証を突破して」まで書いたところで風光が右下からこちらをみて鳴いた。夕方の散歩だ。iPhoneを持たずに風光と家を出て、待ったり歩いたりしていると、さっきまで書いていたブログにかじってもいない現象学と3年前に買って前半の前半の前半まで読んだきりのサルトルの『嘔吐』を感じ出していて、げっと思い留まる。わたしの脳内がわたしの編集なしに書き出されなくてよかったと思いながら、でもほんとにそうだと言えるだろうかとふざけると、遊びのつもりが不安になってきて、まあそんな訳ないから助かるんだけどとぼやぼや終わらせる。
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また同じことを繰り返してるような気がした。結局同じところに戻ってきている気がした。というより、一歩も進んでも戻ってもない気分。 「成長」も思い込みだった。それはただの経験。みえていた人。理解したくて追いかけ回した言葉や役割を失わないように食べたり飲んだりしたものたち。 心からの「だいじょうぶ」や「わかるよ」なんてただのわたしの評価だった。望まれていたのはサポートだ。 わたしじゃない。わたしのためじゃない。視界に突然現れたものも見つけ出したものもわたしのためのものじゃない。組み合わさって分離して死ぬまで失われない個だ。 わたしはなにとも一体化できない。だれもなにとも一体化されない。 だからあの人は誰かに会いに行くのかな。誰も自分と同じではないことを知っているから。誰もが誰かと同じではないと知っているから。 わたしはいつも自分の脳が自分や他者の在り方を書き換えていると感じる。
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『セックス・エデュケーション』のシーズン3を観るためにシーズン2を観返して、シーズン3を観始めた。 怖かった冒頭の叫び声は観るデバイスが変わると怖くなくなった。画面のサイズが小さくなったからかな。違う。怖さはなくなったんじゃなくて、画面のサイズに比例して軽減したんだ。ゼロヒャクで考える癖の跡をみつけられたから機嫌が良くなる。 反省は自分を追い詰めなくてもできるのだと少しずつ理解し始めた。自分の行動を思い返して判定をつけるのはやめられない。でも「だめ」だったらおしまいじゃない。残念だけど。また次が軽々と来るからこちらもからっと作戦を変えるほかない。 まだ「正しさ」を求めて骨をきゅうきゅうと鳴らしながら歩いている。下り坂でも上り坂でも前方に歩行者がいるならば自転車から降りて押し歩く。