冷たい光 ー医学モデルから社会モデルへー

概要
この記事の読者で「発達障害」という言葉を今初めて見聞きした人は少ないと思う。しかしその一方で、発達障害に限らず何らかの障害を持つ人と実際に対面したときに、断片的な知識が頭を巡って「対応できない」と思い込み、他者を遠ざけてしまった経験はないだろうか(私はあった)。

この記事では、そうした勿体無い状況を減らすコツを2つ紹介する。


目次

1.「発達障害の定義」

2.定義由来の偏見が及ぼす悪影響

3.定義由来の偏見を捨てるコツ

まとめ:社会を生きやすくカスタムしよう


1.「発達障害の定義」

 まず初めに、知っている人も多いと思うが今一度「発達障害の定義」について確認してゆこう。

 ただし、今から確認する定義が「医学モデル(個人モデルともいう。以下、医学モデル)」の視点で障害を捉えたものであることを忘れないでほしい。医学モデルとは、障害(生活に生じる困難や不利益)の原因は個人の心身機能にあるとする考え方だ。

 障害に捉え方があるという事実に不慣れな人もいるかもしれないが、これから確認する「発達障害の定義」が医学モデルによる定義であり、たったひとつの「正解」ではないことを頭に置いて読んでもらえればだいじょうぶだ。医学モデル以外の障害の捉え方については後々紹介するから、今はひとまず医学モデルで捉える「発達障害の定義」を一緒に確認してゆこう。


医学モデルで捉える「発達障害の定義」

 厚生労働省は「発達障害|こころの病気を知ろう」において、「発達障害」とは「生まれつきの特性」であり、「発達障害には、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症(ADHD)、学習症(学習障害)、チック症、吃音などが含まれます。これらは、生まれつき脳の働き方に違いがあるという点が共通しています。同じ障害名でも特性の現れ方が違ったり、いくつかの発達障害を併せ持ったりすることもあります。」と紹介している。

 続いて個別の「発達障害」についても言及している。例えば注意欠如・多動症(ADHD)は「発達年齢に比べて、落ち着きがない、待てない(多動性-衝動性)、注意が持続しにくい、作業にミスが多い(不注意)といった特性があります。多動性-衝動性と不注意の両方が認められる場合も、いずれか一方が認められる場合もあります。」と記載されている。また、ここには書かれていないが、これらの特性と「社会的障碍」によって当人の日常生活・社会生活が制限されている場合、特性は「障害」として判断されることを補足しておきたい(「発達障害者支援法」)。

 これらを整理すると、医学モデル視点で捉えるADHDの定義は「多動性-衝動性、不注意のどちらか一方、または両方の特性と社会的障碍によって、それを持つ当人の活動が制限されている状態」といえるだろう。

 読者が元々持っていたADHDの情報(定義)と、ここで確認した「医学モデル視点のADHDの定義」に違いはあっただろうか。


定義が生む発達障害のステレオタイプ

 さて、私が問題にしたいのは、医学モデルで捉えた障害の定義を受容した人々が「ADHDと仕事」について考えたとき、こんな風に結論づけてしまうのではないかということだ。

「ADHDを持つ人は、注意力のいる仕事(ex.監視)や厳かな雰囲気の職場(ex.葬儀業)、慎重さを要する仕事(ex.大工)に向かないのではないか」

 これは実際、私が発達障害支援センターで支援を受けながら就職活動をしているときに、自分自身に対して思っていたことでもある。

 申し遅れたが、私はADHDとASDの診断を受けている。先にあげたADHDの3つの特性の中でも、特に不注意と衝動性による困りごとが多く、ASDの診断基準の1つである「コミュニケーションの障害」を強く感じていた私は、「自分に接客業はできない。自分は他者に大きな影響を与える教員や指導員はできない」と思っていた。

 私は当時の自分にこう伝えたい。それは今すぐ捨てるべき偏見であると。


2.偏見が及ぼす悪影響

 これは他の障害にもいえることだが、たとえ同じ診断を受けていようと、人によって障害の程度やその出方は異なる。

 偏見を持ちながら就職活動をしていた私にも、一応その知識はあった。しかし、当時の私は理想と現実のギャップに苦しみ、自己理解に自信を無くしていた。そのため、すでに出来上がっていた「発達障害の定義」に自分を当てはめて、参考書に書かれている「発達障害者の人生」こそが私の歩むべき人生だと思い込もうとしていた。我ながら偏見による悪影響が深刻で驚く。

 この定義由来の偏見の厄介なところは、偏見を持つ当人に「(定義を)知っている」という自負があるだけに、なかなかそれを偏見だと自覚して捨てるのが難しい点だ。

 しかし、この偏見がもたらす悪影響は、その厄介さを易々と上回る。以下、定義由来の偏見がもたらす悪影響を大きく2つに分けたので、怖いながらも1つずつ、一緒に確認してゆこう。


【悪影響1】障害を持つ当事者の機会損失

 「機会損失」は、別名チャンス・ロスともいう。「デジタル大辞泉」の当該項目に「売り上げを伸ばす機会があったにもかかわらず、商品そのものが不足しているために、本来得られたはずの利益を逃すこと。機会ロス。機会損失。」とあるように、経済的な文脈で使われることが多い言葉だが、経験を利益と捉えて「本来得られたはずの経験を逃すこと」を「機会損失」とよぶこともある。

 つまり、定義由来の偏見がもたらす悪影響の1つ目は、障害を持つ個人に、経験を重ねる機会があったにもかかわらず、それを得る選択肢(手段)が不足しているために、本来得られたはずの経験を逃すことだ。

 例えば私は大学生のころ、体調不良でたびたび講義を欠席した。勉強するために大学に入った私にとって、講義に参加したくてもできない状況はとても辛かった。私の通っていた大学には発達障害を持つ学生をサポートした先例がなく、それでも当時医務室にいた看護師と事務室の障害学生支援担当者はどうにか私の力になってくれようとしたが、重いうつ状態だった私は、専攻分野の勉強をしながら、他大学の「障害学生支援」の資料を当たって各講義担当者に合理的配慮事項を伝えることに疲れてしまい、大学を辞めた。この場合、私は「高等教育機関で受けられるはずだった経験を選択肢の不足のために逃した」といえるだろう。

 ここで繰り返し伝えたいのは、障害を持つ個人の機会損失が個人の特性によるのではなく、「選択肢が不足している」ために起きているということだ。この視点は後に提示する「社会モデル」にも繋がる重要ポイントだ。

 失敗や未経験のことは障害を持たない人にもある。それにも関わらず、障害を持つ人のみが失敗や未経験のことに障害を結びつけられて、得られるはずの経験から遠ざけられてはいないだろうか。


【悪影響2】障害を持つ人を周縁化することによる社会的損失

 昨今、アメリカの企業によるASDの特性に着目した人事採用が話題になっているが、私が言いたいのは、「ASDの特性は社会にとって有用なのに使わないなんてもったいない」ということでは断じてない。ASDに限らず、誰しもの間に必ずある「差異」、もっとミクロに言うならば私とあなたの「差異」こそが豊かな社会を生む泉であるのに、それを遠ざけるなんてもったいないと言いたいのだ。

 定義由来の偏見が及ぼす悪影響の2つ目は、あらゆる社会活動や意思決定の場から障害を持つ個人を遠ざけることによって、社会全体が損害を被ることだ。

 日本では「イノベーション力の低下」が問題視されて久しい。私は、技術の革新(イノベーション)や文化の創造は、既存の技術・文化では包摂外だった利用者・担い手の存在が明らかになることで生まれるのだと思う。「差異」こそがイノベーションと創造の燃料なのだ。

 例えば、私は板書が苦手だ(差異)。他の受講生と同じような速度でノートに書き写すことができないうえに、板書に必死になっていると教員の話を聞き逃してしまう。〈ここからは想像のストーリー〉私は教員にそのことを伝えて、受講環境を改善する方法を教員と話し合った。対話の結果、教員は黒板ではなく事前に用意したパワーポイントを使用する講義スタイルに転換し、授業の初めにその資料をプリントアウトして受講生全員に配布することにした(技術の革新)。しかし、受講生達は配られた資料のまとめ方や使われている用紙、書体、色彩などに不満があったので、要望を教員に伝え続けたところ、受講生主体で考えた授業資料のマニュアルが出来上がり、他授業の担当教員にもシェアされた(技術の革新、文化の創造)。

 この例で、個人間の「差異」が、技術の革新と文化の創造に繋がることが伝わっただろうか。反対に、障害を持つ個人が社会活動や意思決定の場から遠ざけるられることで、豊かな社会の実現がどんどん遠ざかってゆくことも伝わっただろうか。

 障害を持つ人は障害を持たない人と同様に、ひとりひとり異なる背景や思想、得意・不得意を持って今を生きる個人だ。それにも関わらず、障害を持っているというだけで社会生活や意思決定の場から排除されるなんて不合理だし、それは社会(を構成する私やあなた)にとってすごく勿体無いことだ。


3.偏見を捨てるための視点と方法

 ここまで、医学モデルによる「発達障害の定義」と、それを過剰に受容したことで生まれる偏見が私たちの社会に及ぼす悪影響を確認してきた。また、定義由来の偏見は「知識」を基礎にしているだけに、それが偏った人間観であると気づくことがなかなか難しいことも話した。

 しかしながら、実はこの偏見には攻略法がある。古い知識を温床とする偏見は、それと相反する新たな知識を取り入れることで、ゆっくりと打ち消され得るのだ。

 そこで、私の固定観念を崩してくれた2つの知識を読者にシェアしたい。それはずばり、「社会モデル」と「対話」だ。

 2つとも私が初めて提唱したわけでは全く無いため、読者の中には「どっちも知ってた」と思った人もいるだろう。そんなあなたにもできれば、あなたの知識と私の知識に差異がないか確かめるために、最後まで読んでもらえるとうれしい。

 それでは1つずつ、知識を具体化して咀嚼してゆこう。


【コツ1】「社会モデル」を知る。

 コツ1つ目は、「社会モデル」で障害を捉えることだ。

 この記事で「発達障害の定義」を確認するときに使用した医学モデルは、障害の原因を個人の心身機能に求める考え方だった。

 それに対して「社会モデル」は、障害は個人と社会(他者への態度、社会の作りや仕組み)の相互作用によって生じると考える

 偏見は日常生活のあらゆる場面で私たちの言動に影響している。これを減らすためには、新しい知識を具体的に理解して、脳に記憶させやすくする必要がある。

 以下の私のエピソードが「社会モデル」で障害を捉える練習になると思うので読んでほしい。


[環境]私の職場では、私の職場を利用するお客さんのために、テレビがずっとついている。

[障害発覚]私はその音声と目紛しい映像に勤務初日から圧倒されて、社員の指示やお客さんの言葉を聞き取って、適切な対応をすることが難しかった。

[対話]この環境では仕事ができないと思った私は、他の社員に相談した。

[結果]私は好きにテレビのチャンネルや音量を変えられるようになった。これによって、私の聞き取りの苦手さや落ち着きのなさは改善された。また、一時間当たりの仕事に費やすエネルギーが減ったことで、私は前より長く働けるようになった。


 さて、このエピソードにおいて、変わったのは私の特性ではなく職場環境であることがわかるだろうか。

 このエピソードの[障害発覚]を医学モデルで捉えるなら、その要因は私の特性(聴覚過敏など)に求められていただろう。その場合、私の聴覚過敏はイヤーマフなどで対処することもできるが、私はイヤーマフを長時間着用すると頭が痛くなる。もし私と会社が医学モデルしか知らなければ、私はこの仕事を「向いていない」と結論づけて辞めていたかもしれない。仕事を辞めてしまえば私はテレビの音を聞き続ける必要がなくなるが、それはこの記事で確認した「偏見が及ぼす悪影響」そのものであり、それをより助長させてしまう。

 しかし、社会モデルで[障害発覚]を捉えたことによって、私はその要因を「聴覚過敏などの特性を持つ私」と「ずっとテレビがついている職場環境」に求めて、他の社員と共に職場環境を調整することができた。社会モデルは、個人の利益と社会全体の豊かさの両立を促す考え方なのだ。

 さっきから社会モデルばかりを連呼しているが、別にこの言葉と意味を暗唱できなくても構わない。大事なのは、障害を他者(や自己)の内部ではなく、他者と自己の間で生じている現象と捉えることだ。


【偏見を捨てるコツ2】対話する

 社会モデルのいうように障害の程度が環境によって異なるのであれば、相手を知るために最も良い手段は対話することである。

 対話。よく聞くようで、あまり聞かない単語ではないだろうか。念のために『デジタル大辞泉』を引いてみたところ、対話の辞書的な意味は「向かい合って話し合うこと。また、その話。」とあった。そう。これこそ私が伝えたい、定義由来の偏見をやっつけるコツその2だ。

 例えば、ADHDの特性を持つ社員(部下)が上司から指示された仕事の締め切りを守れなかったとしよう。

 このときに「田谷萌々花はADHDだから締め切りを守れないんだ」と決めつけては何も生まれないし、何も改善しない。なぜならそれは思い込み(偏見)であって事実ではないからだ。

 どんな問題も困難も、事実を知らないことには解決しない。ほんとうに問題を解決したいのなら、互いが安心して話せる環境で、同じ主題について話し合うのが一番の近道だ。

 対話は説教でもなければスピーチでも採用面接でもない。ただし採用面接と同様に、職場や団体における対話は参加者が不均衡な権力関係にある場合が多い。それにも関わらずセッティングやルール作りを抜かったまま対話を始めると、弱い立場にある人(部下やチームメンバー)が強い立場にある人(上司やチームリーダー)の「対話やってる感」を演出するために使われるだけになってしまう。例え集団において強い立場にある人が、集団において弱い立場にある人との正直で有意義な対話を求めていたとしても、だ。

 私がいま思い付く対話を成立させるためのメソッドは以下6点である。

(1)弱い立場にある人が安心して話せる場所のセッティング

(2)主題・目的の共有

(3)公平な意思伝達手段の確立

(4)対話内容の記録

(5)発言を最後まで聞くこと

(6)対話内容が弱い立場にある人の処遇に影響しないこと

 他にもあると思ったら、適宜付け足して欲しい。場合によっては少量で流れるチルなBGMや山盛りの醤油煎餅が必要な対話もあるだろう。

 対話のための完全なマニュアルは今のところないし、どんなマニュアルを用意しても予想外の出来事は必ず起きる。対話はプログラムされたマシンではなく個人と個人による行為であり、そもそも予想外の発見が生まれない対話はその意義を果たしていないといえるからだ。

 また実際に対話をしてみると、解決策も発見も見つからなかったり、慣れない個人対個人のやりとりにぎくしゃくすることもあるだろう。しかし、それは悪いことでも無駄な時間でもない。本文における対話の目的は、

・すぐに解決できないほどの課題を一人で抱え込まない/抱えこませないこと

・障害を持つ人/障害を持たない人という認識から、互いができることを分かち合う個人であると自覚すること

にある。対話の習慣はこれらの目的をゆっくりと果たしてくれるだろう。

 「ちっぽけ」に思われる「私」の存在と言動が、他者の「生きやすさ」に深く関わっている。私たちの「できること」を遺憾なく発揮するために、もっと対話の席をつくって、私たち自身が席に着こう。


まとめ:社会を生きやすくカスタムしよう

 このコラムで扱った「定義由来の偏見」は、つい最近まで私の行動を支配していた。私は自分自身を、社会に翻弄され続けなければならない可哀想な生き物のように扱っていたのだ。

 しかし、ある本を読んで不意に出会った「社会モデル」の知識が、抑えられていた私の力に光を当ててくれた。「この生きづらさは、私の内部で起きていることじゃない。私と社会の間に起きている現象なんだ!」冗談でなく、生きる世界が明るく広くなった。

 それまでの私は、他者と自分の差異が発覚するたびに「だから私は○○(ネガティブな言葉)なんだ」と深く落ち込んでいた。いまでもその思考の癖は無くなっていないが、社会モデルを知ってからは随分減った。差異は豊かな社会を生む可能性そのものであり、私は自他の差異をみつけるたびに、「どうしようもない自分」を「ただそこにある自分」、「よく分からなくて怖い他者」を「ただそこにある他者」と認識し直すことができた。それは偶然肌に当たった冷たい風のように軽やかで気持ちのよい事実だ。

 そうはいうものの、他者と共生するなかで、それぞれの差異ゆえに失敗や困難が生じるのは当然のことだ(自分一人で作業をしていても予測と結果のギャップであたふたしているのだから)。

 困難は必ず起きる。案じても案じなくても。だから、不安の泥で自分や他者を固めないで欲しい。失敗しても、その度に環境を調整すれば良いのだ。

 社会をカスタムする力を、あなたも私も、誰しもが持っている。このコラムが、それを思い出させる冷たい光になっていれば幸いだ。