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 何かがすごく悲しくて、洗濯物を畳んだり風光の寝具を西日に当てたりしている間、ずっとそのことを考えていた。何かが悲しい。 これは書くことでしか落ち着かせられないとおもって、10分くらい前に風光との散歩に持っていくと決意して(あなたは決意せずに持ち物を増やせるだろうか)ズボンの左ポケットに突っ込んだiPhoneを左手で掴んで右手に持ち替えながら、ダイニングテーブルの自分の席に座った。回転する椅子の座面に両の足の裏をのせて、机より近づいた左膝に両手を添えたiPhoneをのせる。顔認証を突破して現れたホーム画面の前で人差し指をくるくると2週半してから、何のためにiPhoneを開いたのか思い出す。お気に入りにしてある「Blogger」のアイコンをタップして歯磨きで口に溜まった泡を洗面台にだらしなく落とすように画面のキーボードにぼたぼた触る。「顔認証を突破して」まで書いたところで風光が右下からこちらをみて鳴いた。夕方の散歩だ。iPhoneを持たずに風光と家を出て、待ったり歩いたりしていると、さっきまで書いていたブログにかじってもいない現象学と3年前に買って前半の前半の前半まで読んだきりのサルトルの『嘔吐』を感じ出していて、げっと思い留まる。わたしの脳内がわたしの編集なしに書き出されなくてよかったと思いながら、でもほんとにそうだと言えるだろうかとふざけると、遊びのつもりが不安になってきて、まあそんな訳ないから助かるんだけどとぼやぼや終わらせる。
 また同じことを繰り返してるような気がした。結局同じところに戻ってきている気がした。というより、一歩も進んでも戻ってもない気分。 「成長」も思い込みだった。それはただの経験。みえていた人。理解したくて追いかけ回した言葉や役割を失わないように食べたり飲んだりしたものたち。 心からの「だいじょうぶ」や「わかるよ」なんてただのわたしの評価だった。望まれていたのはサポートだ。 わたしじゃない。わたしのためじゃない。視界に突然現れたものも見つけ出したものもわたしのためのものじゃない。組み合わさって分離して死ぬまで失われない個だ。 わたしはなにとも一体化できない。だれもなにとも一体化されない。 だからあの人は誰かに会いに行くのかな。誰も自分と同じではないことを知っているから。誰もが誰かと同じではないと知っているから。 わたしはいつも自分の脳が自分や他者の在り方を書き換えていると感じる。
ひし形に組まれたわたしの脚のなかへ子犬が一匹入って眠った。そこへもう一匹子犬がやってきてわたしと元いた子犬に重なるようにして眠った。しばらくするとまた別の子犬がやってきて、ひし形の外枠に沿って伏せた。 わたしの脚が3割痺れはじめていたから、そっと子犬の脇に手を入れて一匹ずつ出した。
 『セックス・エデュケーション』のシーズン3を観るためにシーズン2を観返して、シーズン3を観始めた。 怖かった冒頭の叫び声は観るデバイスが変わると怖くなくなった。画面のサイズが小さくなったからかな。違う。怖さはなくなったんじゃなくて、画面のサイズに比例して軽減したんだ。ゼロヒャクで考える癖の跡をみつけられたから機嫌が良くなる。 反省は自分を追い詰めなくてもできるのだと少しずつ理解し始めた。自分の行動を思い返して判定をつけるのはやめられない。でも「だめ」だったらおしまいじゃない。残念だけど。また次が軽々と来るからこちらもからっと作戦を変えるほかない。 まだ「正しさ」を求めて骨をきゅうきゅうと鳴らしながら歩いている。下り坂でも上り坂でも前方に歩行者がいるならば自転車から降りて押し歩く。
おまじないは繰り返されることで効果を発揮するんだな。わたしの輪郭をさらに太く柔らかく包むコトバ。白く濁った青紫色の光。 このコトバを、わたしもきみに何度でも繰り返して、それがきみのおまじないになったらいいな。太く確かにきみの体を包んで、どんなときも守れたらいいな。 別々のところにいても、わたしときみがいつも、同じコトバで包まれていたらいいな。

母の目に

母の目に 花がたくさん映り 蛇のぬけがらがたまに 光りますように ぼくは歩く ぼくの名前はこれだけ あなたともう一度出会うことはできない 母の目に つんつんにぎやかな山の峰が映りますように 大きな夕陽が 広がる夕焼け空が あなたの体をあたためますように

手のひら

あのとき そろばんをはじき あのとき 髪の毛を強くひっぱり あのとき 布団の冷たさを感じ あのとき 硬い頭をたたき あのとき ぐずぐずのティッシュを丸く固めて あのとき 小さな字で詩を書いていた 手のひらは この 手のひらなのか ぼくは生きのびた 生きのびた手のひらを見 つめられず そっとぎゅっとにぎった