羽化したてのオニヤンマをみた。 明るい黄色と黒色の縞模様は尾ではなくて腹らしい。空気に触れて、体と垂直にひらかれた翅は濡れているのか、涼しい朝の光を受けて、ぬら、と瞬いていた。 ゆっくりとした反射は、ぬら。素早い反射は、きら。弾力を感じるような反射は、ぬら。硬質な反射は、きら。てら、は浅い反射。てら、はパルムのチョコレートコーティングを舐める速さの反射。 そのオニヤンマは生きていた。 朝、風子との散歩中にみつけて、真ん中の兄に駅まで送ってもらうとき、ちょっと車を停めてもらって写真を撮った。昼過ぎ、駅まで迎えに来てくれた母の車をまたちょっとだけ停めてもらって、オニヤンマが居なくなったことを確認した。 うれしかった。生き残って、きっと飛んで行ったのだ。抜け殻も見当たらなかった。 眠たくなってしまった。おやすみなさい。
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かたつむりをやっとみた。 やっと、というのは6月にみるものとおもっていたからだ。 雨がいつまでも、いつでも降る。降水確率のものすごく高い、7月の午前10時すぎ。 雨水がじゃんじゃん染み込んで黒ずんだ(ようにみえる)コンクリートブロックのすべすべを、ずらっとした目で眺めた。 すると、わたしの腰くらいの高さのブロック塀に、わたしの小指の爪ほどのかたつむりが三匹くっついていた。 かたつむりにとってはくっつくというより、進んでいるところなのかもしれないけど、わたしに壁を歩いたり走ったり飛んだり這ったりした経験がないせいで、かたつむりの行為は冷蔵庫のマグネットと同じことばで処理されてしまう。 眠たくなってしまった。 まだまだ書きたいことがたくさんある。 ニオイコベニタケを盗んで庭に投げた。
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毎日島ができる。「君と僕」島。「神さまと僕」島。「ふたり」島。さっきまでただの道路だったところが急に「あなたと世界」島になる。びっくりして早足で抜け出すと真横で「猫」島ができて、生えた塀が耳を掠めた。 それらは実際のところ建物とか陣地に似ていて、それを島と呼ぶのはわたしが島しか知らないからだ。 部屋に帰っても島はじゃんじゃんできる。塗り絵みたいなものなのかな、とおもう。また足をどかす。 昨日から、「おいしーい」すいかを食べている。口に入れて、噛んだときにしゅうと萎むすいかがとくにすきなのかもしれないとそれを食べておもった。 それでも「すいか」島はできない。わたしは違う島にいる。 人間のことを覚えていられない。お風呂から上がって、母や父がいるといまだに驚く。「いっしょに住んでいたっけ」ではなく「実在していたのか」のほうで。「ほんとうだったのか」にも似ている。 「自他境界」やら「自他の分別」がはっきりしていないのだ。だから、「他者」に近づきたくない。侵害したくないのだ。こういうとき、忘れっぽいと都合がいい。 6月30日がすきだったな。7月にはいったけど、風は変わらず強いのでおかしい。ふふふ。
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壮平のDVDをみた。 「グロリアス軽トラック」を聴いて、畳のうえでぐるぐる踊りながら回った。おかあさんが笑った。 「Sunrise & Sunset」を聴いて、底に沈みながら、立ち昇る銀色の泡ぶくを泣きそうになりながら見上げた。 壮平の歌は壮平の歌だ。そのなかにはわたしの歌になった歌もある。壮平の歌がすきだ。わたしの歌にならない歌を画面から目を逸らさずに、聴いた。 跳び上がり、そろそろとつま先を下ろす。飛べないはずなのに、もう少しで飛べそうになる。地面から離れていきそうになる。あちこちに生る果物に手が届かなくなる。手を繋ごうとしても、そのころにはもうどこにあの子や君がいるのかわからない。屋根と盛り上がった緑と窪んだ影が寄り集まって、わたしを弾く。どこにも触れられない。背中から、何もないところへとどんどん引っ張られていく。空間。寂しさと、諦めと、たくさんの嘘。終わらない。色と温度が次第にわからなくなる。わたしのものだけがなくなっていく。 6月8日の月曜日、ばかな事故に見せかけて死のうとしたけど、失敗した。そのときに使いきるはずだった道具がまだ部屋にきちんと並んでいる。 わたしの生まれた年は梅雨が明けなかったらしい。おかあさんからきいたから、ほんとうかどうかはわからない。でも、ちょうどいいとおもった。 いない、ことを認めた。 もうあの子はいない。 同じ会話を繰り返すこともない。 どこにもいない。 大きな大きなスイカをみた。 はっきりとした緑と、窪んだ影の縞模様。
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前の週の水曜日の朝、20秒前に出勤した父がわたしに蛇をみせるために帰ってきた。 人のうろうろする場所に背を向けた、出窓だけがよくみえる席で昆布ご飯を食べ終えてぼうとしていたら、「蛇いるよ」と父の声がきこえた。わたしはすぐに「どこに?」と訊いて、茶碗や箸や昆布の入ったプラスチック容器を食卓から使用済みの場所に移す。 返事がないから「パジャマのまま」外に出た。父はたまに返事をしない。 パジャマは薄水色と薄灰色の細い線に太い白線が交差するチェック模様で、母から譲られたもの。急いで足を突っ込んだ内側起毛のクロックスはのっぺりとした水色で歩きにくいほど大きく、一日前に母によって下駄箱から出されたものだ。 つまり、全身まあ水色のワントーンコーディネートだから「恥ずかしい格好」でもないし、全身母に関わる服だから母を置き去りしているわけでもない。問題は無いのだ。 玄関の戸が「だちゃん」と鳴った。わたしは蛇がすきで、父は蛇をみつけて、わたしはそれをみにいくのだから問題無い。 ちょっと前からわたしはもううれしいのだ。はっきりとは覚えていないけど、わたしは以前父に蛇の話をして、父の記憶にそれが残っているのかもしれなかった。あるいはわたしが最近かたつむりをみたいだとかかえるとか羽化途中で死んだおにやんまだとか一年前の夏に庭でみつけてやたらと発光しているからほっといたたまむしの死体(おにやんまと違ってこっちは分解が遅い。緑色の光沢は鈍くなったけど内側の尾の朱色のそれはしぶとい、というより光るうえでのストレスが無いようにみえる。「玉虫色」なんてことばがあるせいか)を父にみせる(「ほら」「おお」)とかしていたから、蛇もみたいだろうとおもったのかもしれない。わからない。どちらにしてもその通りだ。 だけど、「これが欲しかったの(正解!)」みたいな答え合わせはしたくないから、「蛇いるよ」の意図は訊けない。 てんてんと家の敷地を出て、右を向いたら父が歩いていたので、てってと走ったら追いついた。早歩きをしながら「どこ?」と二回訊いたら父はまっすぐ腕を伸ばして止まった。「この辺を横切ってた」。蛇に急ぐ用事はないという思い込みで私も道路をちゃっちゃと横切り、着いた除草剤で白んだ草むらと猫の住む家の擁壁の隙間を覗き込むと、いた。 二年前か三年前か四年前、家の玄関ポーチの赤レンガのうえで僅かに動いているのをみつけ