前の週の水曜日の朝、20秒前に出勤した父がわたしに蛇をみせるために帰ってきた。
人のうろうろする場所に背を向けた、出窓だけがよくみえる席で昆布ご飯を食べ終えてぼうとしていたら、「蛇いるよ」と父の声がきこえた。わたしはすぐに「どこに?」と訊いて、茶碗や箸や昆布の入ったプラスチック容器を食卓から使用済みの場所に移す。
返事がないから「パジャマのまま」外に出た。父はたまに返事をしない。
パジャマは薄水色と薄灰色の細い線に太い白線が交差するチェック模様で、母から譲られたもの。急いで足を突っ込んだ内側起毛のクロックスはのっぺりとした水色で歩きにくいほど大きく、一日前に母によって下駄箱から出されたものだ。
つまり、全身まあ水色のワントーンコーディネートだから「恥ずかしい格好」でもないし、全身母に関わる服だから母を置き去りしているわけでもない。問題は無いのだ。
玄関の戸が「だちゃん」と鳴った。わたしは蛇がすきで、父は蛇をみつけて、わたしはそれをみにいくのだから問題無い。

ちょっと前からわたしはもううれしいのだ。はっきりとは覚えていないけど、わたしは以前父に蛇の話をして、父の記憶にそれが残っているのかもしれなかった。あるいはわたしが最近かたつむりをみたいだとかかえるとか羽化途中で死んだおにやんまだとか一年前の夏に庭でみつけてやたらと発光しているからほっといたたまむしの死体(おにやんまと違ってこっちは分解が遅い。緑色の光沢は鈍くなったけど内側の尾の朱色のそれはしぶとい、というより光るうえでのストレスが無いようにみえる。「玉虫色」なんてことばがあるせいか)を父にみせる(「ほら」「おお」)とかしていたから、蛇もみたいだろうとおもったのかもしれない。わからない。どちらにしてもその通りだ。
だけど、「これが欲しかったの(正解!)」みたいな答え合わせはしたくないから、「蛇いるよ」の意図は訊けない。

てんてんと家の敷地を出て、右を向いたら父が歩いていたので、てってと走ったら追いついた。早歩きをしながら「どこ?」と二回訊いたら父はまっすぐ腕を伸ばして止まった。「この辺を横切ってた」。蛇に急ぐ用事はないという思い込みで私も道路をちゃっちゃと横切り、着いた除草剤で白んだ草むらと猫の住む家の擁壁の隙間を覗き込むと、いた。
二年前か三年前か四年前、家の玄関ポーチの赤レンガのうえで僅かに動いているのをみつけて、弱そうだからげんこつ三つ分の距離まで目を近づけて、連なる鱗に「勝手に」やられて以来の、蛇。
そのときの蛇より太く、一部がアルファベットのUのような形になってるのにそれぞれの端の位置の見当がつかないほどやたらに長い。だけど、Uから空白を置いた右奥に蛇の小さい頭と目がみえたので、突然親しみを感じる(いまおもうと威嚇されていたのだ)。色は前より黄色っぽい「褐色」。眼鏡をかけていないし、げんこつ十五個ほどの距離はあったので鱗はあまり拝見できなかった。
父は人の「言うこと」を信用しないわたしに「アオダイショウや」(「アオダイショウなん?」)といって、ちょっと前に坂道を上がって行った。もう下ってるころかもしれない。その辺の時間。わたしは織田作がすきだけど、時間が嫌い。
とにかく、わたしがみたいのは蛇のUでなく鱗なのだとわかった。前々からわかってそうだけど、前に蛇に会ったとき恐竜のイメージも一緒に湧いていたから、蛇まるごとに「勝手に」やられたのかとおもっていたのだ。「生きる化石」としての蛇ってこと。
だけど、黒っぽい夜に濡れた芝の上で青いホースを蛇触りたさに握ったことや、川上弘美の「蛇を踏む」を読んでも溜め息が出なかったこと、三石神社の蛇塚のつるっつるの白蛇たちをみても好感とそこそこの興味を持つだけだったことをおもいかえすと、わたしの蛇への執着は鱗だけに向いているのだとわかった
陸上に連なる鱗。それが生き物の体であること。それをみられること。それが全てだ。舌が何枚あろうと変身しようと知ったこっちゃない。
で、今回の蛇には近視のせいでぼんやりとだけど鱗があった。細やかにうねる曇った輝き。だからやっぱり、何日か経った後でも「蛇みました」とおもいだして「ひひ」と笑う。自分ひとりで。でもやっぱり、もっと近くで鱗みたい。皮膚もいいけど鱗がいい。

その次の日に蛇の死体をみた。千切れたのか、嵩は少なかった。砂利の目立つアスファルト製の道にあった。わたしの代わりに誰かが(江戸川乱歩だ)礫死体というから、たぶんそうなんだろう。潰れて縦に大きく裂けたところから白色の細長い中身が出ていた。
わたしが突然その塊をみて動かなくなったから、一緒に散歩していた風子が暇なのか付き合ってくれているのか知らないけど死んだ蛇の匂いを嗅ぎに行った。わたしは風子が「死体に鼻を近づけている」状況に慌てて風子を呼び戻し、竹林の中を走った。住宅地に入ると風子の右脚に羽のない小さな虫が二匹ついていたので指先で掬ってどこかへ飛ばした。マダニだ。竹林の中は涼しいけど、寒くなるまで通らないでおこうと決めた。
蛇の死体のことは父に言ってない。死体はすきじゃなさそうだから。