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元気も涙もよくわからなくなった代わりに、子どもがずっと居座ってる。頼りなくてこころぼそい。子どもはわたしをぜんぜん寄せつけない。「どうでもいい」とか「くだらない」とか「わかんない」とか。考えないくせに母を楽しませる。父がふと笑う。わたしの出る幕がなくなる。 「年齢に比べて言動が幼い印象」。母に伝えると、昔はその逆だったと言われた。嘘つきで悲しくて怒られて怒ってばかりの「大人っぽい子」? いまは「素直」で「正直」だ。ほんとうかな。罪悪感と不安がずっとあるのに。 母に「ちびちゃん」「ちびた」と呼ばれるたび、そうだよ、わたしはそこにいたんだよとおもう。甘えるたび、部屋でうずくまったわたしが信じられない顔でこちらをみる。
海を舐めた。 ピンクネイビーグレーの道路をみつけに行きたくて飛び出たのに、いつのまにかお母さんを巻き込んでオレンジ色のつやつやを追いかけていた。階段はあちこち欠けていたけど、それもピンクに発光しているので問題なく駆け上がった。 そういえば家の階段も、机の足も、プルキニエ現象や卵色の西日のなかでは、障害にならなかったような気がする。そんなことをいって転けたらおもしろいな。だって、ただじっとしていただけかもしれないし。 オレンジのつやつやを目の前に持ってきて安心したわたしは岩のうえに座って、みえなくなっていく太陽のてらてらと、あち、こち、ぱ、ぱ、ら、はー、順番のない(あるのかも知らないけどわたしにはわからない。とは書かない。順番のことを理解したいとはおもわない)海水の騒ぎ。 特別なんかじゃないとわかってる。夜もそうしてる。でも波は眠たくならない。ぱ、ぱ、ぷ、はあ。
オニヤンマの檸檬色はアミメアリたちに覆われて、やわらかい黒色になった。入れ替わり立ち替わる3。死んでも周りに生きものがいる限り変化は止まないこと知る。 だからってどうだっていいとは言えない。いつか割れる器。それを寿命だなんてぜったいに言いたくない。 燃やして灰になっても誰かに食べてもらえる。
羽化途中のオニヤンマをみつけてはしゃいだ。 雨が大きくなったり小さくなったりして降り続くなか、オニヤンマをみにいくと、体の位置が少しずれていた。だけど体自体に変化は見当たらない。やっぱり死んでいるのかもしれないとおもう。わからないから、また明日もみにいく。死んでいたら家の庭に持って帰る。でも、わたしにいつそれがわかるんだろう。 どこかで羽化に成功したオニヤンマが飛んでいる。それならいいやとおもえないのはどうしてだろう。わからないから、また明日もみにいく。
スイカを食べた。じゅうじゅうわたしの口に広がる。 スイカ、わたしがきみのことをこんなに愛おしくおもっているのは、きみを食べられるからなんだね。たっぷり。水っぽい、草の、甘い匂い。ぼくの嫌いだった蔦の匂いがする。鼻の先でそこにいるのかを確認しようとして、つんと触れる。だいすきだ。 毎日虫をみつける。昨日、このあいだ、みた虫のことをたくさん書きたい。知らせたい。振り返って、きみがいたらいいのに。 茶色い足。橙のテントウムシ。中身の出てしまった大きな毛虫。いつもちがう虫に会うんだよ。ぜんぶはおしえられないね。 きみにあと何回会えるんだろう? 月がたんたんとうえにいく。たんたんと自転するわたし。 フリージア。バッタみたいな、コオロギみたいな、黄緑色の虫。
なんにもできない。 自分のこともきちんとできない。 それなのにまた返事をしてしまった。 間違えてしまった。さつきのなかに突っ込むとバキバキさつきの枝が折れてしまった。 ボールが取りたかったから。 だれかのために生きることを少しでもできたらいいのにな。
『イミテーション・ゲーム』を久しぶりに観た。記憶と状況が、奥で小さく目の前で大きくでもどちらも同じ速さで光る。勝手に動き出すのだ。それについていまは何も考えたくない。 この映画の始まりがすきだ。「責任は君にある、注意して聴くように」。そのことばが映画を観終わって固まる身体に「責任をとることのできるわたし」を取り戻させるのだ。 虚構と現実で世界を二分化すれば、弱々しい安心と不安と真実が得られる。起きているときに幽霊をみたくないのなら、それでちょうどいいんだろう。