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 20時から5分間だけ、花火が打ち上げられた。家からみえない花火を目指して、わたしと母と次兄は外に出た。 母に「走る?」ときいたら「走る」と許可が出たので、わたしは背中を押されたみたいに、暗い坂道を駆け降りた。小さな段差につまづいて転ばないように、わざとガタついた歩道を行く。 母が暗い道を怖がって歩けなくなっていないか心配になって振り返ると、遠くから母と次兄が並んで歩いて来るのがみえた。 あのとき、わたしたちの目的はきっといっしょだった。生きているとこういうことが起きるんだ。 安心して、花火を捕まえるためにまた坂道を駆け下りていく。 緑色のファミリーマートまで下ると、ついに花火が全部みえた。 もっと空の近くでみたくなって、ファミリーマートの裏にある葬式屋の高台に登る。だけど登りきった頃にはもう、花火は上がらなくなっていた。 濃紺の空が背景から夜空に変わっていく。 花火は終わったのに、母と次兄はわたしのところまで降りてきてくれた。 早歩きの母と口数の多い次兄といっしょに、行きより明るく感じる帰り道を帰った。
わたしと母と父と次兄の海開きをした。 浮き輪を三つ、スイカのビニールボールをひとつ車に積んで、夕闇の海に出かけていった。 海は藍色。 波は穏やかで、浮き輪に座るようにして海に浮かぶ次兄をやさしく揺らしていた。父がスイカのビニールボールを抱えて「ラッコみたい」に浮かぶ。母は口数の少ないわたしに一度「げんき?」(「げんきだよ!」)と訊いて、兄の浮き輪をたまに突いたり押したりしてかまっていた。父の真似をしたわたしに、父が「ラッコみたい」と言う。 すべて、やわらかな海水のなかで起きたこと。体温と海水温が馴染んでゆく。混ざり合うことができたらいいのに。触れ合って、揺らされるだけのわたしたち。 ゴーグルをつけて潜ってみると、海底に小さな白色がいくつもみえた。砂を被っていたり、さっくり刺さっていたりしてるんだろう。 水切りによさそうな石も二つ沈んでいた。あれは何色だったんだろう。水深170センチメートルくらいのところだったから、拾い上げて確かめてみてもよかったんだけど、しなかった。ひとりになりたくなかった。
『もののけ姫』を観に駅前の映画館へ行った。 作中に「人間」ということばが頻繁に出てきた。同じくらいに「森」も。 「人間は嫌いだ」「人間扱いしてくれた」「人間でも生きものでもないもの」 「人間」の内容は発話者によって異なるのだろう。 自分たちの種族の繁栄のために森を傷つけ、破壊し続ける生きもの。自分と似た姿形をした生きもの。いま・ここで共に生きている、生きてゆくもの。 生を与えるものは死も与える。そしていずれその生きものも死ぬのだ。 でいたらぼっちは生き抜くために巨大な体で森を破壊して生きものを殺していた。先に人間が殺したのだから、人間のせいだとはいえない。理屈で許される殺戮などひとつもない。 でもあの体は、どうしてあんなに大きいのだろう。誰があんなに大きくしたのだろう。 あの対立を人間対森の生きもの、あるいは人間対シシ神とみるとき、そこに巻き込まれた生きもののことを忘れてしまう。 「人間」に括られた生きもの。人間に殺される人間。人間と言葉を交わさずに逃げ惑うネズミやリス。 「たたら場」や「シシ神の森」や「誇り」や「契約」のために死にたくない生きもののこと。 でいたらぼっちが頭を探していたのは生命保持の欲望からだろうか。それとも、自分の「森」を手放したくなかったからだろうか。 わたしにはシシ神もでいたらぼっちも生きものにみえた。 生きものを「場」や「意志の集合体」にはしたくない。「象徴」にも。 アシタカとサンはでいたらぼっちに頭を返していた。捧げるのではなく。「人間」が奪ったものを「人間の手で」返すということ。あの場面は何を意味するのだろう。 生きるための許しなんて必要ない。わたしの生と死はわたしの肉体に宿っている。誰かに与えられる必要はない。 感想がばらばらと散らばっていく。 わたしはわたしがヒトであることから逃げたくない。 音楽を聴く耳で道路を走る車の音を聴いた。緑色に輝く小さなハエをそろっとみつめた。遠くに住む友だちに会いたいとおもう。すきな食べものがある。海に入りたい。 電車の待合室の壁に「重要指名手配」のポスターが貼ってあった。殺人。窃盗。罰を受け、罰を与えるヒトであるということ。