『もののけ姫』を観に駅前の映画館へ行った。

作中に「人間」ということばが頻繁に出てきた。同じくらいに「森」も。
「人間は嫌いだ」「人間扱いしてくれた」「人間でも生きものでもないもの」
「人間」の内容は発話者によって異なるのだろう。
自分たちの種族の繁栄のために森を傷つけ、破壊し続ける生きもの。自分と似た姿形をした生きもの。いま・ここで共に生きている、生きてゆくもの。

生を与えるものは死も与える。そしていずれその生きものも死ぬのだ。
でいたらぼっちは生き抜くために巨大な体で森を破壊して生きものを殺していた。先に人間が殺したのだから、人間のせいだとはいえない。理屈で許される殺戮などひとつもない。
でもあの体は、どうしてあんなに大きいのだろう。誰があんなに大きくしたのだろう。

あの対立を人間対森の生きもの、あるいは人間対シシ神とみるとき、そこに巻き込まれた生きもののことを忘れてしまう。
「人間」に括られた生きもの。人間に殺される人間。人間と言葉を交わさずに逃げ惑うネズミやリス。
「たたら場」や「シシ神の森」や「誇り」や「契約」のために死にたくない生きもののこと。

でいたらぼっちが頭を探していたのは生命保持の欲望からだろうか。それとも、自分の「森」を手放したくなかったからだろうか。

わたしにはシシ神もでいたらぼっちも生きものにみえた。
生きものを「場」や「意志の集合体」にはしたくない。「象徴」にも。

アシタカとサンはでいたらぼっちに頭を返していた。捧げるのではなく。「人間」が奪ったものを「人間の手で」返すということ。あの場面は何を意味するのだろう。

生きるための許しなんて必要ない。わたしの生と死はわたしの肉体に宿っている。誰かに与えられる必要はない。

感想がばらばらと散らばっていく。

わたしはわたしがヒトであることから逃げたくない。
音楽を聴く耳で道路を走る車の音を聴いた。緑色に輝く小さなハエをそろっとみつめた。遠くに住む友だちに会いたいとおもう。すきな食べものがある。海に入りたい。
電車の待合室の壁に「重要指名手配」のポスターが貼ってあった。殺人。窃盗。罰を受け、罰を与えるヒトであるということ。