居候2日目。
きょうは朝夕とも、同居人が風光の散歩をした。わたしはただ、散歩から帰ってきた風光に、蛇口を捻ってぬるい水を出し切ってから、冷たくなった水を器のようにした手で飲ませる役割をつとめた。冬は少しつらい役目だけど、夏はむしろ手のひらを冷やせるから気持ちいい。ただ、どんな気候でも、わたしの手のひらで受けていた水を、だいすきな生きものに、舌ですくって飲んでもらえるのは、しあわせなことだ。すぐそばで必要なものを与えられている喜び。この気持ちには何か名前がついていそうだけど、いまそれを探す気はない。
同居人たちとそうめんを2束ずつ食べた。
同居人は食後、しあわせだといって泣いた。そのひとが「ずっとみんないっしょがいい、それがぼくにとっていちばんしあわせなの」という言葉は何度も聞いてきたけど、これまでと違ったのは、同居人が泣きながらも「あなたのすきにしたらいいんだよ」と、何度も言ってくれたことだった。
そのおかげか、実際にわたしが同居人の望む「みんないっしょ」の状態から離れた暮らしを手に入れたからかはわからないけど、わたしもこれまでと違って、「いっしょがいい、さみしい」と泣く姿に怒りや罪悪感を感じることなく、ただそばに座っていることができた。そうなんだね、とただ聞いていられた。きのうみた『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』の影響もあるかもしれない。
中学校から高校まで、支えにしていた教員から1年ぶりぐらいに連絡がきた。その頃と違う呼び方で返事をしたわたしのメッセージを訂正するように、わざわざ過去わたしが読んでいた呼び方を一人称にして話すそのひとの強さがあいかわらずで、困りながらも懐かしさを感じた。このひとは数年前、「中学校という場所が怖くて行けない」と言ったわたしの言葉を知ったうえで、「いつでも遊びにきて」なんて言ってるのかな。
相手がどういうつもりで言ったかなんて普段はあまり考えない。考えるときはたいてい、他者の持つわたしのイメージが、わたしのもつ自己像とは離れたところで固定されてるように感じるときだ。
わたしはもう生徒じゃない。そして教え子でもない。